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『戦艦大和・大和ミュージアム』

戦艦大和

親戚で、戦艦大和とともに運命を共にした人がいます。そして、ここ大和ミュージアムにその名が刻まれています。

国の未来のために戦った、先祖に恥じぬような生き方をして生き方をしていきたいです。

航空自衛隊に入隊したわが娘にも敬意を示します。ありがとう、そしてこれからの日本の為に頑張ってほしい

我が娘に誇りを持っています。

戦艦大和の歴史

大和型戦艦1番艦 である。大和の艦名は奈良県旧国名大和国、あるいは日本の古称・別称・雅称に由来します。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和 に続いて二代目です。

大和は、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した軍艦でした。設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使されました。しかし、その存在で特に46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたことや、さらに敗戦前後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたためにその姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっています。

太平洋戦争大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役しました。1942年(昭和17年)2月12日連合艦隊旗艦となりました(司令長官山本五十六大将です)。6月上旬のミッドウェー作戦が初出撃となり、1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、武蔵に連合艦隊旗艦任務を移譲しました。同年末、大和は輸送作戦中にアメリカの潜水艦の雷撃で小破しました。 修理・改装後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦マリアナ沖海戦に参加しました。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施しました(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日天一号作戦において第二艦隊第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したが、アメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈されてしまいました。爆撃や魚雷を多数受けたが、対空防御、対水雷防御の両面において、特攻作戦を行わなければ十分な防御能力がありました。

ロンドン海軍軍縮条約の失効を1年後に控えた1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出しました。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦です。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称されました。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、山本五十六ら航空主兵論の将校からはそうした大型艦の建造が批判されていました。

1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると、5年後の1942年(昭和17年)6月15日を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動しました。同年11月4日には広島県呉市呉海軍工廠造船船渠で起工。長門型戦艦1番艦長門天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて[、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張されました。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程でした。また艦の性能値も意図的に小さく登録されました。大和ミュージアム展示の戦艦大和の46cm砲弾。

機密保持は厳重を極めました。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、棕櫚(しゅろ)の葉を編み込んだ大量のが全面に張り巡らされていました。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、大騒ぎになったという逸話が残っています。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることが出来ないようになっていました。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれました。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていました。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密でした。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったといいます。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘しています。

1940年(昭和15年)3月3日、海軍はマル3計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択しました。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていました。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名しました。なお同日附でマル3計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定しています。

同年8月8日進水。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われました。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものでした。昭和天皇海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作しました。結局は天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで進水式は行われました。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼びました。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮千代田城二重橋を描いた有田焼風鈴を500個制作、関係者のみに配布しました。 8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告しました。

大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れました。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令。昭和16年(1941年)9月20日、呉工廠で最終艤装中の大和。

1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖で荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノットを記録。続いて30日に全力公試27.46ノットを記録、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れました。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施しました。真珠湾攻撃の前日でした。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違いました。 呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工しました。同日附で第一戦隊に編入されました。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録されました。大和の1/500模型は昭和天皇香淳皇后天覧ののち海軍省に下げ渡され、海軍艦政本部の金庫に保管されたといいます。

大和には、当時の最新技術が多数使用されていました。日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首(バルバス・バウ)を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最新鋭の艦型でした。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電波探信儀が漸次装備されていきました。 なお、副砲には条約型重巡の主砲がそのまま転用されたが、これは帝国海軍が海軍休日を破棄して条約型重巡の主砲を15センチ砲から20センチ砲に入れ替えるのを最初から計画していた、という説もあります。

連合艦隊旗艦

1942年(昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となりました。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいました。 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行いました。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残しました。5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはありませんでした。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲しました。同6月14日柱島に帰投しました。

大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はありませんでした。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速です。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実でした。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛比叡榛名霧島が用いられることが多かったです。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いでありました。

1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まりました。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航します。8月21日、グリメス島付近を航行し、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発しました。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが、入泊直前に大和はアメリカの潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれました。2本は自爆、1本を回避しています。その後、トラック泊地で待機しました。 9月24日、ガダルカナル島への輸送作戦をめぐって陸軍参謀辻政信中佐が大和に来艦、山本連合艦隊長官と会談しています。辻は大和の大きさに感嘆しました。だが、大和が最前線に投入されることはありませんでした。ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなりました。 第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦霧島と比叡が大和と同世代のアメリカの新鋭戦艦であるサウスダコタワシントンとの砲撃戦により大破、自沈しました。この点で大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性とアメリカの積極性を比較する意見もあります。

昭和18年の行動

1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務は大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型戦艦2番艦武蔵に変更されました。2月20日には第八方面軍司令官今村均陸軍中将が大和を訪問し、連合艦隊首脳陣と南東方面(ニューギニア方面、ソロモン諸島方面)作戦について懇談しました。第八方面軍は海軍の潜水艦による輸送を依頼しました。これは三式潜航輸送艇(通称「まるゆ」)開発につながる動きでありました。5月8日、空母2隻(冲鷹、雲鷹)、重巡2隻(妙高、羽黒)、駆逐艦4隻(潮、夕暮、長波、五月雨)と共にトラック出航、各艦は18日に呉や横須賀の母港へ戻りました。呉では対空兵器を増強し、21号電探22号電探などレーダーを装備しました。

8月16日、主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門扶桑〉、空母〈大鷹〉、巡洋艦3隻〈愛宕高雄能代〉、駆逐艦部隊〈涼風海風秋雲夕雲若月天津風初風〉)は呉を出撃し、トラックへ向かいました。 ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、大和はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加出来ませんでした。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されています(当時満州に満鉄の経営する高級ホテルチェーン、ヤマトホテルがあった)。作戦行動を終えた駆逐艦が大和に横付けし、駆逐艦乗組員が大和の巨大で整った風呂を利用することも多かったといいます。10月中旬、マーシャル諸島への出撃命令が下りました。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからです。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港しました。

1943年12月、大和は陸軍独立混成第一連隊をニューアイルランド島へ輸送する戊号輸送に参加。大和は駆逐艦秋雲、谷風、山雲とともに戊一号輸送部隊として横須賀からトラックまでの輸送にあたることとなりました。

12月12日、6隻(大和、翔鶴山雲秋雲風雲谷風)はトラックを出発、17日に横須賀へ帰着しました。

人員物件を搭載して12月20日に大和、山雲、谷風は横須賀を出発したが、12月25日に大和はトラック島北西150浬でアメリカの潜水艦スケート (USS Skate, SS-305)より魚雷攻撃を受け、主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷しました。4度の傾斜を生じたが約770トンの注水で復元、速度を落とさず速力20ノット前後でトラック泊地へ向かいました。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたといいます。一方、すぐに魚雷命中と気がついた、乗り込んだ陸軍の兵士が衝撃に驚いて大騒ぎになったという乗員の証言が残されています。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けました。浸水量は3000-4000トンであります。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていませんでした。工作艦の明石に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の大和は明石に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はありませんでした。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという。同日、トラックに到着。大和から人員物件は戊三号輸送部隊へと移され、カビエンへ向かいました。大和はトラックで応急修理を受けた後、内地への帰還を命じられました。

レイテ沖海戦

1944年(昭和19年)10月22日、大和はレイテ沖海戦に参加するため第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃しました。だが、23日早朝に栗田艦隊の旗艦・重巡愛宕がアメリカの潜水艦の雷撃で撃沈されたため、大和に座乗の第一戦隊司令官の宇垣中将が一時指揮を執った。夕方に栗田中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれました。昭和19年(1944年)10月24日、シブヤン海海戦で米軍機の爆撃に対して回避行動を取る大和。

24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の雷爆撃により大和の姉妹艦である武蔵が撃沈されました。このとき、大和にも艦前部に爆弾1発が命中しています。25日午前7時、サマール島沖にてアメリカ護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行いました。

この戦闘で、大和は主砲弾を32,000mの遠距離から104発発射しました。この砲撃に対し護衛空母のカリニン・ベイは「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評しています。当時大和砲術長だった能村(後、大和副長)によれば、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言しています。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で、最初の「正規空母」は護衛空母ホワイト・プレインズで、次の艦はファンショー・ベイです。至近弾による振動でホワイト・プレインズは黒煙を噴き、大和ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい。アメリカ軍側の記録では、ホワイト・プレインズは命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしています。能村副長は、第一目標に四斉射した後「アメリカ軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想しています。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告されています。シブヤン海を航行中にアメリカ軍機の攻撃を受け回避行動を取る戦艦大和。魚雷攻撃を避けるため、左へ回頭するところで大和の左舷前方にはアメリカ軍機が投下した魚雷の航跡らしき白い筋が見えました。

戦闘中、大和はアメリカ軍の駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまでアメリカ軍空母と反対方向に航行することになりました。さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施したました。この戦闘では、大和右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、大和の森下艦長と能村副長が制止するという場面がありました。

アメリカ軍の護衛空母ガンビア・ベイに大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、利根型重巡洋艦1番艦利根艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論しています。アメリカ側の記録にも該当する大火災発生の事実はなく、ガンビア・ベイは午前8時15分に重巡羽黒と利根の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされています。ガンビア・ベイへの命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げています。海戦は23日から始まり、26日まで4日間続きました。

アメリカ側では0725-0730頃、駆逐艦ホーエルジョンストンが戦艦からの主砲・副砲弾を受けました。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛では0714に砲撃を開始し、2射目が有効であったとしているが、0715には大和、長門、榛名も駆逐艦、巡洋艦を目標に砲撃を行っている他、ホーエルが艦橋に命中弾を受け通信機能を失った0725には、大和が巡洋艦を目標に砲撃を行い撃沈を報じています。このため、0728にジョンストン、0725にホーエルに命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性があります。また、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(利根、筑摩)もホーエル、ジョンストンを砲撃しており、特にホーエルは0750以降に重巡部隊と大和、長門による集中砲火を浴び、40発の命中弾を受け、0830にその内の8インチ砲弾一発がエンジンルームを破壊して航行不能に陥ったが、0834に大和は他艦と共にこのホーエルに対して追撃を加え、0835にはホーエルは船尾より沈み始め、0855に遂に転覆する事となりました。ジョンストンは0725の砲撃で被害を受けたものの、スコールに退避する事に成功したため、応急修理を行った後再び戦闘に復帰していたが、0845に軽巡矢矧を先頭に第十戦隊が空母群に魚雷攻撃を仕掛けようと、急速に接近している事を認めたジョンストンは、矢矧に砲撃を加え水雷戦隊が空母群に接近する事を防ぐ事に成功したものの0940に包囲され集中砲火を浴び沈没しました。このため、この海戦で大和が単艦で敵艦を葬った可能性はないという事になります。なお、この海戦で0850以降に大和が重巡洋艦鳥海を誤射したという説もあるが、大和は0834以降は砲撃を行っておらず、唯一0847に金剛が砲撃を行っていたのみであるため、大和が鳥海及び筑摩を誤射した可能性は無いです。

雑誌『丸』(2015年)にて、当時の羽黒乗組員である石丸法明が鳥海の被弾を羽黒艦橋で目撃した元良勇(羽黒通信長)、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した南里国広(二等兵曹、信号兵)、および当時の戦艦金剛乗組員3人の証言から、「金剛による誤射だった」という説を提唱しています。

アメリカ軍の損害は、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン、ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツが沈没というものでした。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母セント・ローが沈没、数隻が損害を受けました。

アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究によれば、この海戦による大和による砲撃の効果は以下の通り。ホワイト・プレインズ (護衛空母) : 至近弾とはいえ、ホワイト・プレインズは大きく揺さぶられて機関室が破壊されました。駆逐艦ジョンストン (USS Johnston, DD-557) :46cm砲弾3発被弾、15cm砲弾3発被弾。

サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けてレイテ湾に突入することなく反転を命じました。宇垣中将の著作には、当時の大和艦橋の混乱が描写されています。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきました。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜しました。米空母フランクリン艦載機の攻撃により、一番砲塔近辺に直撃弾を受けた直後。損傷は軽微でした。

往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障はありませんでした。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出ました。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云います。また前甲板の爆弾は錨鎖庫に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水しました。

10月28日、大和はブルネイに到着しました。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが特に戦闘は起きませんでした。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する。同日夕刻、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第十戦隊(矢矧、浦風、雪風、磯風、浜風)とともに内地に帰還したが、台湾沖で戦艦金剛と駆逐艦浦風がアメリカの潜水艦の雷撃により撃沈されることとなりました。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛5代目艦長にかわって有賀幸作大佐が6代目艦長となった(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦。)。

大和の姉妹艦である武蔵の沈没は大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え、いずれ大和も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいました。宇垣中将は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記しました。

レイテ沖海戦で、日本の連合艦隊は事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した信濃も呉回航中にアメリカ潜水艦の雷撃で沈没し、結局大和と信濃が合同することはなかった。大和以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている。昭和20年(1945年)3月19日に柱島沖の大和が空襲を受ける。

1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港に敵艦載機が襲来、大和は事前に安芸灘に出たが攻撃を受け、直撃弾はなかったものの、測距儀が故障、陸あげ修理を要しました。その後、すでに安全な場所でなくなった呉軍港から徳山沖に疎開しました。

同年3月28日、「第二艦隊を東シナ海に遊弋させ、大和を目標として北上して来たアメリカ軍機動部隊を基地航空隊が叩く作戦」(三上作夫連合艦隊作戦参謀)に向け、大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられ呉軍港を出港したが、米機動部隊接近の報を受けて空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、徳山沖で待機となりました。

3月30日にアメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥った。関門海峡は27日にアメリカ軍によって機雷封鎖され通行不能でした。

海上特攻の準備

最終時の大和。アメリカ側の資料で、最新の研究考証に準じているが一番砲塔脇と砲塔上の機銃形状が日本側考証と異なります。

4月2日、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧での第二艦隊の幕僚会議では、次の3案が検討され。

1. 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。

2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。

3. 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。

この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていました。伊藤中将は山本大佐を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていました。

一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が大和による海上特攻を主張しました。連合艦隊の草鹿龍之介参謀長はそれをなだめたが神大佐は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させました。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神大佐が計画しました。神大佐は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神大佐は草鹿参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊司令長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田司令長官は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、上手く行ったら奇跡でした。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」と言います。一方の草鹿参謀長も「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。

神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れました。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話しています。神の提案を軍令部総長及川古志郎大将は黙って聞いていたが、軍令部次長の小沢治三郎中将は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」といいます。第五航空艦隊長官の宇垣中将は戦時日誌に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまったため、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして及川軍令部総長の対応を批判しています。

4月5日、神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は大和の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一中将に作戦命令の伝達と説得を行いました。なかなか納得しない伊藤に「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得しました。連合艦隊作戦参謀の三上作夫中佐によれば、自身も作戦に疑問を持っていた草鹿参謀長が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説明したといいます。草鹿参謀長は「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と回想しています。この特攻隊は連合艦隊長官豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名されました。

大和では命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられました。大和の高角砲員であった坪井平次によれば、しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたが、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していたといいます。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振るまいました。

4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

4月6日、「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任された。第二艦隊は同日夕刻、天一号作戦菊水作戦)により山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」を掲げた。

大和は菊水作戦で沖縄までの片道分の燃料しか積まずに出撃したとする主張が存在したが、記録、証言から約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいたことが判明しています。戦闘詳報でも大和の出撃時の燃料搭載量は4000tと表記されており、生存者の三笠逸男は出撃前に燃料担当の同僚と会い、周囲のタンクなどからかき集めて合わせて4000t程大和に搭載する事を聞いています。

第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月涼月)、第十七駆逐隊(磯風浜風雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜初霜)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊花月)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。

  • アメリカ軍偵察機F-13『スーパーフォートレス』B-29の偵察機型) により上空から撮影された出撃直後の大和の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の大和の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、その写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されています。

天一号作戦の概要はアメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることでありました。さらに立案者の神重徳参謀の構想では、もし沖縄にたどり着ければ、自力座礁し浮き砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させることも描いていたとされる(神大佐は、以前にも戦艦山城を突入させ浮き砲台としサイパンを奪還すると具申して、中沢佑軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下されたことがある)。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていました。なお、大和を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていました。実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが、上記に理由で却下されています。また、現実を見ればアメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の主意は、攻撃の主役である菊水作戦による航空特攻を支援するための陽動作戦でした。戦争末期には日本海軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近ではアメリカのスレッドフィンハックルバックの2隻の潜水艦に行動を察知されました。4月6日21時20分、ハックルバックは浮上して大和を確認、ハックルバックの艦長のフレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡しました。この電報は大和と矢矧に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡されました。

当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていました。しかし大和が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたといいます。しかし実際には、スプルーアンス大将が戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところを、ミッチャー中将が先に攻撃部隊を送り込んでしまいました。武蔵は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャー中将は何としても大和を航空攻撃のみで撃沈したかったのだといいます。またミッチャー中将は、各部隊の報告から大和が沖縄へ突入すると確信し、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めました。なお、スプルーアンス大将はアメリカ留学中の伊藤中将と親交を結んだ仲でした。

大和ミュージアム概要
所在地:〒737-0029 広島県呉市宝町5番20号
TEL:: 0823-25-3017
FAX : 0823-23-7400
入館料:個人料金 
一般(大学生以上)500円 高校生 300円 小・中学生 200円
入館料:団体料金 (20名以上)
一般(大学生以上)400円 高校生 200円 小・中学生 100円
※ 未就学の幼児は無料です
定休日:火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日休館)
※ 4月29日〜5月5日、7月21日〜8月31日、12月29日〜1月3日は無休
開館時間:
展示室・ミュージアムショップ  9:00〜18:00(展示室入館は17:30まで)
ライブラリー  9:00〜17:00
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