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津和野 乙女峠

津和野ぶらり旅の第2弾です(^^♪

津和野の乙女峠、ふるさとの坂道三十選をてくてく歩いていきます。さすがに、十字架の道行きは行きませんでした。理由は、どこから行くのかよくわからなかったからです(;・∀・)

o津和野 乙女峠 マリア聖堂
津和野 乙女峠 マリア聖堂

地図を見て

乙女峠のマリア聖堂から、至福の碑迄の距離は、約600メートルあるそうです。行ってみようと思ったのですが、道がわかりませんでした。

津和野 乙女峠 マリア聖堂
津和野 乙女峠

さっそく、ふるさとの坂道を歩いて行ってみることにしましょう。道は結構狭い感じで、道には苔が生えているのでちょっぴり足元注意です。

津和野 乙女峠 マリア聖堂
津和野 乙女峠

ちょっと道から外れたところに小さな滝があったので、パシャリ(^^♪

この日は暑かったので、水辺は涼しく感じられていい感じでした。

津和野 乙女峠 マリア聖堂
津和野

道沿いには、ちょっとした小川があり、こぼれ日と共にいい雰囲気でした。

津和野 乙女峠 マリア聖堂
津和野

手すりはあるけど、道が狭いのでちょっと窮屈感も感じられます(;・∀・)

津和野 乙女峠 マリア聖堂
津和野 乙女峠
津和野 乙女峠 マリア聖堂
津和野 乙女峠

手作り郷土賞を貰っているみたいですね(o^―^o)ニコ

津和野 乙女峠 マリア聖堂
乙女峠 マリア聖堂

乙女峠の石碑が出てきました。

乙女峠での出来事

慶応元年(1835年)長崎浦上 4千人以上の隠れキリシタンから少数の者が、当時フランス寺と呼ばれて日本人は、立ち入り禁止であった今の大浦天主堂に入り「サンタマリアの御象はどこ?ここに居ります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます」との有名な言葉によって、キリシタン発見は、はっきり認められキリスト教の、歴史の中に入りました。徳川二百五十年以上の、厳しい迫害にも彼らの祖先たちがキリスト教を守り続けたことを、全世界は感嘆して受け止めました。しかし、キリシタンの喜びもつかの間で「浦上四番崩れ」と言われる弾圧が始まりました。およそ三千四百人が、見知らぬ土地に流罪の刑を受けました。

津和野 乙女峠 マリア聖堂
津和野 乙女峠 マリア聖堂

鹿児島、萩、名古屋等の二十二カ所が選ばれ、その中に津和野も加えられました。浦上の信徒の指導者が、津和野藩に預けられたのは、この地が神道研究で隆盛を当主、亀井茲監が神道による教道教化に相当の自信を、抱いていたからでした。藩出身の国学者である、福羽美静の指導で津和野藩は、キリシタンの信徒を改心させる務めを負いましたが、キリシタンの信仰は厚く、たやすく改心させるとこは出来ませんでした。そこで彼らは、最初にとっていた方針を途中で変更し、拷問を加えて棄教させる方法を取りはじめました。

乙女峠 マリア聖堂

三尺牢から氷責めにいたるまで、残酷の限りを尽くしたのです。。(※ぞっとしますね。。)キリシタンたちは、着の身着のまま、雪深い津和野へ送られ、獄舎で冬を越すことは相当の拷問でした。。。(凍死してしまう。。。)日増しに加わる減食の責苦、乙女峠の一隅にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み。。(想像しても恐ろしい。。)行き絶え絶えの者を引き上げて、今度は火あぶりにして責めました。。(残酷な歴史がある乙女峠。。)

乙女峠 マリア聖堂

キリシタンの中心人物だった、守山勘三郎はこの拷問が一番苦しかったと覚書の中に書いてあるそうです。。(いや全部苦しいと思いますよ。。想像しただけで鳥肌が立ちました。)また見せしめのために若者を三尺牢という小さな折に押し込めて、人間の弱さを最大限に利用する心理学的拷問までも行っていました。(拷問をする側の人、感覚がもうマヒしちゃってるのかなぁ。。。)

津和野 乙女峠 マリア聖堂
乙女峠 マリア聖堂

このマリア聖堂は、廃寺光琳寺の跡に建っているそうです。現在、聖堂は壁の亀裂や雨漏り、鐘楼の傾きもあって、改修工事をしている最中のようです。

津和野 乙女峠 マリア聖堂
乙女峠 マリア聖堂

その一人安太郎という若者は、明治二年(1869年)1月10日裸のまま雪の中の三尺牢に入れられました。おとなしくて明るい性格で立派な人でしたから、役人は彼が棄教すれば、ほかの者も教を捨てると思ったのです。しかし、その反対に皆は安太郎の為に祈り、心配して3人が慰めに行くと決めて、貨幣をナイフの代わりに用いて床に穴をあけ、1月17日ひそかに彼を訪問した時、彼の言葉を聞いて驚いたそうです。その言葉は『私は少しも寂しゅうはありません。毎夜九つ時(深夜12時)から夜明けまで、綺麗な聖マリアさまの御影に見えるような、ご婦人が頭の上に顕れて下さいます。とても良い話をして慰めてくださるのです。』

乙女峠 マリア聖堂

この安太郎の言葉も、守山勘三郎の覚書に残こされているそうです。

守山勘三郎ともう一人の記録をよく残した、高木仙右衛門は、生き残って長崎に帰り天寿を全うしたそうです。(天寿を全うされてよかったです。。複雑な気持であっただろうと思います。。)5年間の拷問・責苦や殉教のありさまの日々を、毎日あてがわれた塵紙へ忠実に詳しく書いてます。勘三郎と仙右衛門の記録が、最も大切な書となって今まで保存されているそうです。

津和野 乙女峠 マリア聖堂

役人は、勇敢な勘三郎を憎んでいました。そして、彼の弟14歳の裕次郎を丸太で十文字にしばりつけ、その後裸にして縁側に座らせ、いろいろ責めたそうです。。(14歳の子に。。。なんてことを。。)鞭で打たれるたびに少年の、キイキイと泣き叫ぶ声が牢まで聞こえて、みんなはわが身が責められる思いをしたそうです。(あまりの仕打ちに。。文章を書くのも辛くなってきました。。しかし、歴史から目をそらしてはダメですよね。書き続けます。)

二種看護裕次郎は遂に、危篤状態となりました。役人の森岡はその時自分の行ったことを恥ずかしく思い、看病の為少年を姉のマツに渡しました。マツに一生懸命に暖められて、やっと意識を取り戻した裕次郎は『責め苦を受けているとき、悲鳴を上げてしまって、さぞや姉上の耳に触ったことでしょう。ごめんなさい。八日目、もう耐えきれると思ていた時、向こうの屋根の上を見ると、一羽の雀が飯粒を含んで来て、激しく泣いている小雀の口に入れてやってるのを見ました。私は、すぐイエス様、マリア様のことを思い出しました。小雀でも神様から親雀によって大事にされ、守られていると思うと、まして私が、ここで責められるのをご覧になって、より以上に可愛く思って下さらぬはずはない。こう思うと、勇気が百倍にして、何かの苦しみも無しに耐え忍ぶことが出来ました。』と話しました。(行いが恥ずかしいと、気が付くのが遅すぎですよね。。一命をとりとめてくれてよかったと思いました。)

雀の親子の愛を見て、神の本性が愛である音を悟った裕次郎は、明治3年(1870年)11月26日に、その美しい魂を神のみ手にゆだねました。

記録の中には、まだたくさんお美しいことや悲しいことがありますが、その一つは、六つの女の子モリちゃんの殉教です。飢えに苦しんでいる子に、役人は美味しいお菓子を見せて、『食べてもいいがその代わりに、キリストは嫌いだと言いなさい』というと、その子は『天国の味がもっといい』と答えて永遠の幸せを選びました。(役人の汚いやり方には苛立ちを覚えます。しかし、天国の味がもっといいと答えて、永遠の幸せを選んだって。。それは本当の意味での、幸せだったのであろうか。。本当にその選択が幸せだったのだろうかと考えさせられます。せっかくこの世に生まれ落ち、まだ6年しかたっていないというのに、あまりにも悲しすぎると私は思いました。ただ当時はその選択が飢えに苦しむ、苦境からの最後の選択だったのかもしれませんね。。)

人間的に弱かった何人かは、口でキリストを捨てましたが、働きで得たお金で食べ物を買い、信仰を守り通している人々に、ひそかに差し入れをして助けました。この謙遜な痛悔と犠牲がキリストの真の精神だと認めた、キリシタンたちは、自由になって故郷長崎に帰った時『ころんだ』仲間たちの弁護をし、彼らは許しを得て再び協会に入れられました。

津和野 乙女峠 マリア聖堂

上の写真の人物がだれなのかを、下の写真で確認が出来ます(o^―^o)ニコ

この十字架の横に小道があります。そこの小道から千人塚にある、殉教者の墓までの600メートルの山道は、『十字架の道行』となります。十字架の道行とは、イエス・キリストが当時のエルサレムのローマ総監であった、ポンショ・ピラトの官邸で、死刑を宣告され、カルワリオという丘まで十字架を担われ、その丘で私たち人類の救いの為に、十字架につけられました。その工程を十四留にまとめた道を『十字架の道行』と言います。

この道行をカトリック教会では、初代教会より今日まで大切にし、聖地であるエルサレムでは、最も大事な聖なる巡礼地となっています。ここ乙女峠で、残酷な拷問に耐えて、信仰を守り通したキリシタンたちは、このイエス・キリストの御受難に力づけられて耐え忍びました。

歴史を知れば知るほど、その土地でどんなことが行われていたのかを、考えさせられます。皆様もその観光地や名所の歴史を、行く前に調べて行くのと、そうでないのでは気持ちに違いが出てくると思います。

私は今回、ここの歴史を先に調べて行かなかったので、調べてから行けばよかったと、ちょっぴり後悔しています。

ホームページで、歴史を書いていく中、こんなつらい過去を持つ土地だったのだと知りました。次訪れるときには今回とはまた違う気持ちで、散策が出来ると思っています。

織部灯籠

上の写真では見えずらいと思うので、書き出します。

この織部灯籠は、織部焼と共に安土桃山時代から江戸初期の茶人で、有名な大名であった古田織部正が、はじめて南蛮的なものを取り入れて作ったものの、一部で全国に流行をみたものである。

織部正は十七世紀初め、信長・秀吉に仕えた三万石伊勢松坂の城主で、千利休に茶の湯を学び、利休なき後は一流をなしたが、関ケ原の大坂方に殉応自刃した。

しかし一部の織部灯籠には、キリシタン灯籠といわれるものもある。

YouTubeにですが、動画も投稿してあるので、ホームページの内容と併せてご覧いただけたら幸いです(o^―^o)ニコ

乙女峠の所在地
所在地:〒699-5605 島根県鹿足郡津和野町後田
駐車場:あり(無料)ただし停めれる台数が少ないです。

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