津山城(跡)散策をしてきました。

津山城(跡)散策などは、城跡だけあってアップダウンもあるし眺めも良いので

健康的にも気分的にも良い感じです。

この津山城は、鶴山公園(かくざん)のところにあります。

~~☆津山城の歴史☆~~

津山城は、慶長8年(1603年)森忠政公(森蘭丸の弟)が、信州川中島から

18万6500石の大名として入封した時に

森忠政は、吉井川と宮川の合流点を見下ろす小高い【鶴山】(つるやま)を城地と決定し

翌慶長9年(1604年)【鶴山】を【津山】と改めて城と城下町の建築を始めました。

その途中で、江戸城や駿府城普請・大坂の陣へ出陣などに多くの年月を費やされましたが

建築を開始してから足掛け、13年の歳月を費やして築いた要塞堅固な名城です。

~~☆津山城の城郭構成☆~~

次に、津山城の構成について

この津山城は、先ほどの歴史の話にも出ていたように、吉井川と宮川の合流点を望む小高い山を利用して築かれています。

そのため、山頂を削って本丸とし、本丸を囲むように【二の丸】・【三の丸】が配置されています。

そして麓には、重臣の屋敷を配し、城下町のと間を画する堀で囲んでいます。

堀には6カ所の門が設けられています。

そして、城下町の中心となる京町に面する京橋門を大手としています。

次に建物の数について、本丸と二の丸には御殿が置かれ、建造物は本丸が31・二の丸が12・三の丸が17棟配置されていました。

比較的コンパクトな面積の中に、これらの建造物がひしめき合っている様子は、壮観だったことでしょう。

~~☆津山城の城主☆~~

続いて津山城の城主について

この津山城の城主の歴史は、初代【森氏】の忠政から4代続きましたが元禄10年(1697年)4代藩主長成の跡継ぎを立てられずに領地没収となってしまい、翌元禄11年(1698年)には

松平宣富が美作10万石を領して津山城城主となりました。

そしてその後、松平氏は慶倫(よしとも)まで、9代続き明治維新を迎えました。

~~☆復元が行われた備中櫓☆~~

備中櫓は、【森家先代実録】付図の【作州津山城本丸之図】に【上の櫓備中櫓と云 城下より見ゆる】

と記載されていて、本丸から南に張り出した石垣の上に建てられた櫓です。

このため、城下からの景観も含め

城内で天守に次ぐシンボル性の高い建物だったのではないかと

推定されています。

さらに備中櫓は、その内部構造も独特の物でした。

奥向御殿のさらに奥という場所に位置していて

なおかつ御殿の一部としての機能していた為

内部は御殿建設の仕上げとなっています。

このことから、備中櫓が藩主もしくはその家族というか切られた人物の為の空間であったのではないかと、推定されています。

そのため通常の櫓ではない希な全室畳敷、天井張りという構造になっていて、絵図によると

【御座の間】・【御茶席】・【御上段】とうの全国的にも類例をあまりみられない特別な空間が存在していました。

このように、景観的シンボル性が高く、内部は限りなく御殿建築であるという、この櫓を復元することにより

築城当時の津山城の建造物の様子を体感してもらうことが可能となりました。

~~☆復元された年は?☆~~

それでは、この津山城の櫓が復元されたかというと、津山城の築城が開始してから400年目の節目である、平成16年(2004年)に、備中櫓の復元整備が行われました

~~☆津山城(跡)散策☆~~

津山城(跡)散策について

この津山城は、実は西日本随一の桜の名所として多くの花見客が訪れる場所でもあります。

また、新緑のところには藤・芝桜・あじさい、そして秋には紅葉、冬には雪景色など

四季を通じて訪れる人の目を楽しませてくれる場所でもあります。

ちなみに、津山城跡に入るには入場料が掛かります。

入場料

大人 320円

 

中学生以下 無料

 

団体(30名以上) 240円

 

【備中櫓入場料は無料】

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